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ゼミ課題読書感想文

工藤俊悟 201204

 


「プロタゴラス」 プラトン著

 

高校時代倫理と世界史をとってない私にとって「プラトン」や「ソクラテス」という人名には少し抵抗があった。今回の読書課題3冊の中で一番てこずるだろうなと考えていたのがこの「プロタゴラス」だった。しかしいざ読んでみると、内容は「良き生とは?」「徳は教えられるか?」など質問の意味自体はわかりやすく、文体も読みやすかったため、意外だった。しかし、質問内容は理解できても、考えてみると答えは深くなりそうなのばかりで何回も読み返してみたくなるような本だった。

「徳」という言葉でくると若干抵抗があるが、これを「気質」や「性格」に直してみたらより、考えやすくなった。性格は変えられるのか?環境や出会う人によってかわるものだろうか?それとも生まれつきほぼ決まっているものなのだろうか。

この問いに今の私が答えるのはまだできないが、「その人を形作るもの」に興味があるので、これからも考えていきたいと思う。

公平と平等の違い、「なる」と「ある」の違い、楽しみと歓びの違い、古代の偉大な人物達はここまで明確に区別し、理解していたのかと思うと現代人の私はびっくりした。発達した文明に違いはあれど、古今東西、人々が考えたりすることは基本的には同じなのだろうか。プラトンの書物をもっとみてみたいと思った。私はこれまで歴史を学ぶことは好きだったが、それはあくまで出来事・エピソードとしての歴史だったように感ずる。が、歴史の中でどんな思想が生まれたのか、古代の人物が今と変わらない問いを自分たち自身になげかけてたのだと思うとゾクゾクする。今、「橋本ゼミの紹介」というプリントを再び見返してみると「生存の美学」「いかに生きるか」「人間について深く考える」という文字が目に入ってきた。このようなことを考えるのに、プラトンやソクラテスはうってつけだと思う。

またこの本では「議論、討論の仕方」も学ぶことができる。ソクラテスがプロタゴラスを追いつめていく方法としては、自分の主張の正当性を主張するだけでなく、相手に「〜は〜ということですね。」と確認を求め、相手がうなずくと、そこから矛盾を探し出す。相手に無知を気づかせるのはこういうことかと納得した。また相手をうち負かすだけでなく、ソクラテスはプロタゴラスに「なかんずく徳については、あなたほど立派に考察できる人はほかにないと私は思っているからなのです。」(123P)と相手をたてるのも忘れない。これはプロディスコが「あなた方が論題について討論し合っても口論し合うべきではないと思う。」(89P)と述べていることである。さらに最も私が感銘を受けたのが、最終的に2人が当初とは違う主張になっていることである。あれだけ、論理的で強い主張をしていた2人が、である。さらには、また改めて機会をみつけて論じようと約束して別れている。まさに議論の鏡。古代の人物たちは立派だなと感じた。終(1227字)

 

 

「江戸川乱歩傑作選」江戸川乱歩

 

私は小学校時代から漫画「名探偵コナン」が大好きである。その影響もあり、明智小五郎シリーズと、シャーロック・ホームズシリーズは小学生の時から読んでいた。そのため、今回この短編集に明智小五郎が出てきたときは懐かしくて感動した。しかし、小学校時代の私は、明智小五郎シリーズのトリックがつまらなくなってしまっていて、読むのをやめてしまった。例えば、「目撃者、証言者が実は犯人の仲間で、嘘の証言をしていた。」というなんとも次元の低いトリックだったことが多くなってきたからだ。そんなこともあり、今回、江戸川乱歩が読書課題というのは期待していなかったが、今、読み終えてみて、非常によい読書をしたと言える。

一般に探偵小説は、高度なトリック、真相で読者を騙し、犯人が誰だろうかというワクワク、ドキドキ感で読者を本から離さない。(最もアガサ・クリスティのオリエント急行殺人事件は、登場人物のほとんどが犯人であったが。)探偵は、物的証拠や、目撃者、関係のある人物の証言から、解決までのストーリーを組み立てていく。

しかし、この江戸川乱歩傑作選はそのようなものではない。例えば、

「物的証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるのですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。」(106P)

と探偵・明智が述べているように、物的証拠は当てにしていない。

さらに、「1つでも新しい事実を報告するのを手柄のように思うのが人情ですからね。」(62P)のように証言者も当てにしない。事実、「D坂の殺人事件」では、目撃者の証言が食い違うことがあった。他にも「金歯というやつはひどく人の注意をひくものだ。」(36P)のような人間の特徴に基づいて推理を組み立てていく。このように江戸川乱歩のうまさはトリックや奇想天外のどんでんがえしのようなストーリーや犯人が誰かというドキドキで読者をひきつけるのではなく、明智の「僕は人間を研究しているんですよ。」の言葉に代表されるような、人間の深さに焦点を当てている点にあると思う。「D坂の殺人事件」、「心理試験」、そして、たばこをすわないことに明智が、気がついて解決のきっかけになった「屋根裏の散歩者」などはそこらへんがうまくかかれていると思う。

人間に焦点を当てるだけでなく、江戸川乱歩の小説の魅力がもう一つある。それはゾクゾク感だ。人が椅子に潜んでいるという「人間椅子」、球体の鏡に人間が入る「鏡地獄」、そして、戦争で四股をうしない、芋虫のようになった夫と妻の物語「芋虫」。

この傑作選の前半は人間に焦点をあてた探偵小説、後半は恐怖小説となっているが、その発想が素晴らしい。だれもそんなことを経験したことはないし、乱歩ももちろんそんな経験はしていないはずなのに、よくもかけるなと思う。人間は自分の経験したことを元に、考えを広げていくはずなのに、乱歩はあたかもそれを経験したかのように書いている。日常に起こりえないけど、考えられることSF小説のように、全くあり得ないことではないから、日常の中の非日常さが読者をひきつけるのだろうか。たまらないゾクゾク感であった。

小学生だった私が、嘘のトリックに嫌気がさして、乱歩を読まなくなったことはすでに述べたが、実は、この傑作選も嘘がたくさんある。二銭銅貨、赤い部屋、人間椅子はいずれもそのたぐいであったが、充分楽しめた。小学生の頃は、ストーリーがなにより重要であったからであろう。今の私に、結末はそんな重要でない。

もう1つ述べておきたいことがある。「罪と罰」との関係だ。このレポートを書いている時点で、私は「罪と罰」を読了していたのだが、そのため、「心理試験」の中で

「彼はナポレオンの大掛かりな殺人を罪悪と考えないで、むしろ、賛美すると同じように、才能のある青年が、その才能を育てるために、棺桶に片足ふみ込んだおいぼれを犠牲に供することを、当然のことだと思った。」(115P)

という一節に出会ったとき、すぐにラスコーニコフが思い浮かんだし、「屋根裏の散歩者」で郷田が犯行を終えた後の、気が気でない感じもラスコーニコフである。

すると解説の中で、江戸川乱歩がドストエフスキーに傾倒していたことがかかれてあった。あきらかに影響をうけていることがわかったのだが、このことは私がこれから小説を読む上で大きな発見になりそうだ。

作者がどのような人物に影響をうけて、その作品が出来上がったか。このことを意識してこれからの読書を楽しみたいと思う。

もしかすると、春休みの読書課題の三冊はそのようの意図があるのではないか。

まだ読んでいない、プロタゴラスを読むのが楽しみになってきた。

 

終(1945字)

 

 

「罪と罰」ドストエフスキー

 

 「罪と罰」は実は読書課題ということで最近買ったのではなく、1年以上前から購入していたものだった。しかし、「難しい」、「長い」という評判がチラホラきこえ、なかなか読み始めるまでに時間がかかってしまったのだが、読んでみると驚くほどおもしろかった。休憩を挟まずに150Pは一気によめるレベル。以前、ドストエフスキーの「白雉」を読んで、あまりおもしろさは感じなかったが。(メモをとってなかったということもあると思う。)かといって、ただのストーリーだけがおもしろく、共感できる娯楽小説とは違い、まだ味わったことがない人間の感情(私は今まで人を殺害したことがない。)にもうまく焦点をあてている。もちろん、一回読んだだけなので深い所のおもしろさはわかっていないだろう。しかし、一回目でこんなにおもしろさを感じた「名作」小説はあまりなかったので驚いた。

 ラスコーニコフの感情は一貫していない。読みやすい娯楽小説の登場人物は性格が非常にわかりやすい。しかし、ラスコーニコフは例えば、「人間に対する激しい飢えのようなものが感じられた。」(上 21P)と思いきや、そのあとすぐに「あらゆる人々に対するいつもの不快な苛立たしい嫌悪感をおぼえた。」(上 24P)とわずか3Pあとに感情を激変させている。ラスコーニコフは感情の起伏が非常に激しい。そこが人間的であると思う。

彼は殺人を犯した瞬間から、ソーニャにあうまで、生きていることをやめてしまっていたが、ソーニャの無償の愛にふれて、時にはそれを嫌悪しつつもそれを受け入れる。

この無償の愛というのが本作の大きなテーマの1つではないだろうか。私がみた中でもう一人無償の愛を持っている人がいる。ラスコーニコフの母である。ラスコーニコフの母はいつの時もラスコーニコフの味方であった。それ故、最後の別れの瞬間はぐっとくるものがあった。母との別れのシーン、そしてソーニャとのラストシーンはこの物語でも名場面であると思う。

ここでこの物語から私が考えさせられたのは「人が人を助ける理由はなんだろうか。」ということだ。

「罪と罰」はラスコーニコフが老婆2人を殺害する場面「人が人を殺す理由」だけでなく「人が人を助ける理由」も考えさせられる。例えば、ドゥーニャの夫になるはずだったルージン。彼はドゥーニャだけでなく、ソーニャも助けようとしたがその理由は自らが支配者になりたかったからである。上巻の前半ではラスコーニコフがよったお嬢さんを助けようとするが、その時ラスコーニコフは「なんだっておれは助けようなんてかかりあったのだ?おれに助ける力があるというのか?おれは助ける権利をもっているのだろうか?」(上 107P)と考えている。その後ラスコーニコフはマルメラードフ亡きカテリーナ・イワーノヴナ一家に20ルーブリ渡し、そして、生きる決意をする。本文には「傲慢と自信が彼の内部に秒一秒成長してきた、そして一分後にはもう先ほどの人間とはがらりと変わってしまった。それにしても、いったいどんな変わったことが起こったのか、何が彼を一変させたのか?」とある。(上 394P)ソーニャは家族をその身を投げ出してでも助けている。徹底した自己犠牲。ソーニャは誰かを助けるときに、理由などもっていなかった。

私自身が誰かを助けようとするのは、なぜだろうか。認められたいから、褒められたいから?(ルージン)自分自身が助かるから?(ラスコーニコフ)理由などない(ソーニャ)やや強引に分類するとこうなるだろうか。この問題は答えがあるかもわからないし、今ここで答えられるようなものではないので、省略する。ただ、「罪と罰」にはそのような見方もできるのだなと感じた。理由などないというのは、どうやら神の存在の世界までいく気がする。

「罪と罰」には「人が人を殺す理由」もでてくる。

「1つの生命を消すことによって-数千の生命が腐敗と堕落から救われる。1つの死と百の生命の交代。」(上 138P)とある。似たような文面を去年見た。「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?」マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」である。この問題は功利主義や人間の尊厳にかかわってくる問題である。

ところで、ラスコーニコフのように明確な思想をもって人を殺害する人物が現実世界に今までいたのだろうか。むしゃくしゃしていた、かっとなってしまった、やられたからやりかえす、生きるために仕方がなく、ではなく、だ。このような理由は殺人を完全に正当化したとはいえない。

今レポートを書いていて感じたが、いないのではないか。だとすると、殺人の正当化を目指した、ラスコーニコフは本当の悪人ということになるのだろうか。

「罪と罰」を読了してみて考えてみると、とてもそうは思えない。彼は殺人者ではあるが、罪と罰の物語終了後、更正していくことはエピローグで述べられている。

そもそも「悪」とはなんだろうか。

大学に入ってから一層、善悪がわからなくなってきた。最近「独裁者の教養」(安田峰俊 星海社新書)をみて、独裁者が形作られていく背景や、幼少期のすごし方を学んだ。その本を読んだ後では、彼ら独裁者が完全な悪には思えなくなった。

悪意があって悪事を行うことは悪だと思う。しかし、ラスコーニコフも、過去の独裁者も、ナポレオンも悪意はなかった。では罪は?悪意と罪の意識は違うのではないか。ラスコーニコフには罪の意識はあった。罪とは法律に違反することだけのように現在日本にいる私は思ってしまうのだが、この本の物語の登場人物たちはそうは感じていない。神に逆らうことが罪のようになっている。ここらの感じ方は神を信じる者、独特の感情の感情で神に対して特別な感情をもっていない私は理解できないのではないだろうか。

正義、罪、善悪について深く考えてみようと思った。罪と罰は再読に値する本だと思うので、また見てみたい。終(2464字)